理容師カフェ‐小さな理容室の販促物語‐

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藤堂高虎がヘアサロンを経営したら  理容 美容室 ヘアサロン

現存している戦国武将に対する資料から、その行動・思考パターンを分析して、

もし仮に、現在のヘアサロン経営者とだったら、どのような舵取りを行なうのか。

完全なフィクションですが、歴史上の有名人物になりきって考えてみます。

今回は、渡り鳥大名と揶揄されている戦国時代の転職名人、藤堂高虎にスポットを当ててみました。

さて、どうなることでしょう?


藤堂高虎(以下・高虎)は、戦国から江戸時代にかけて活躍した武将。

約190センチとも言われている体格から武術に秀で、多くの戦場で前線指揮官として活躍を重ねました。


「武士たるもの七度主君を変えねば武士とは言えぬ」という言葉の通り、主家(勤め先)を何度も渡り歩きます。


高虎を大名に取り立ててくれた豊臣秀吉が亡くなった直後も、

次の政権を虎視眈々と狙う徳川家康に対して露骨に近付き

最終的には江戸幕府を開幕した戦国の覇者・徳川家康に使え、絶大な信頼を得て、

外様大名には破格の待遇である、譜代大名格と言う地位を得る程の出世を勝ち取ったのです。


また、築城(城作り)の縄張り(設計)の名人という側面もあり、江戸城の縄張りも高虎が行ないました。

そして、晩年の高虎は、藤堂家家訓(高公遺訓集)200ヶ条を残します。

内容は、藤堂家が泰平の江戸時代を生き抜くための処世術。

その数から想像できるように、武士の本分から生活の態度にまで、実に細かく書かれています。

余談ですが、幕末の鳥羽伏見の戦いでは、迫り来る敵の官軍に対して真っ先に寝返りました。

時勢を読み違えない臭覚は、代々引き継がれていたのです。


さて、高虎がヘアサロンを経営したら、どのような業態になるのでしょうか。

勝手気ままに想像してみますね。


主家を何度も変える若かりし頃の高虎。

よほど武勇に秀でていたのか、または自信過剰だったのか。

もしくは、自己の成長を環境に依存するタイプだったのか不明ですが、

その行動パターンは現在でもはっきり出てくると考えます。

独立するまで勤務先のヘアサロンを転々としつつも、色んな技術を習得してくことでしょう。


その間、多くの主君を見るうちに「付加価値」の重要性に気付き、技術だけでは自店の繁栄は難しいと考え、

なにか一つ、大きな特徴を兼ね備えることに研鑽を重ねる姿が想像できます。


築城の縄張りに秀でたことから、もしかしたら、ヘアサロン経営者であると同時に、

内外装デザインに精通するかもしれません。


高虎が縄張りを行なった城に共通しているのが、石垣を高く積み上げる方法であることからも、

基本的な部分は、決してブレないという特徴が読み取れます。

したがって、働くスタッフの導線や、空気の循環、照明位置、汚れ難い材質の選定など、

働きやすさを貫く店舗デザインを行なうのではないでしょうか。


どちらにしても、ヘアサロン経営者でもあり、店舗デザイナーという地位を獲得することでしょう。


そして、気になるのが、もう一点。藤堂家家訓200ヶ条の存在です。

高虎自身が若き頃の苦労を重ねて体得した処世術。つまり、次世代へのマニュアル。

これを、この時代でも作ることは、充分考えられます。


しかも、かなり事細かく詳細部分まで触れているのではないでしょうか。

あいさつの方法というカテゴリーだけでも、仕草やタイミング、もしくは表情やTPOに合わせた行ない方などなど、

それだけでも一冊の本になるくらいの内容になるかもしれません。

どちらにしても、男性美容師が生涯美容師を続ける確率が、わずか数%という現状を憂い、

少なくとも、自店のスタッフには長年に渡って働けるような想いからマニュアルをつくり、

それがまた、理美容業界内で話題になるかもしれません。


ただし、これはレアケースだと思いますが、理美容業界の将来を見限り、

突然、異業種への業種転換を行なうことも、あるのではないでしょうか。

幕末の鳥羽伏見の戦いで、自家を守るため、いち早く寝返った家柄です。

条件が整えば、それもまた想定できます。


本日の感謝

最近、経営コンサルタントさんとのご縁が相次いでいます。

理由は定かではありませんが、これも何かのタイミングなのでしょうか。

どちらにしても、これもご縁です。感謝。


明日の夢

会社に一日中いると、風邪ひきます。

明日もデスクワークが中心となるので、長そでシャツを着て行きます。

体調が戻りますように。